Plants in South Africa
ずいぶんと時間が経ってしまったけど、年末年始の1週間ほど、南アフリカのケープタウンで過ごしました。
旅のメインテーマの1つとしていた南アフリカの植物について、調べたことも含めて書いてみます。
日本ではどちらかというとゾウやキリンなど動物のイメージが強いかと思いますが、南アフリカは世界でも有数の固有植物生育地として知られています。
"南アフリカは世界的に見ても際だって植物の多様性が大きい地域の一つで、野草wild flowerに関しては南アフリカには約20000種の固有種(indigenous spicies)が生息しており全世界の顕花植物(flowering plants)の約10%にあたる。"
下の写真のように、つくりだす風景も日本とはまるで違います。
(南アフリカの植物たち )
写真はケープタウン市内のカーステンボッシュ植物園内ですが、まるでジャングルのようでした。
さて、地理的にも環境的にも遠く離れた南アフリカの植物ですが、植物分類の歴史を少し勉強したところ、日本との意外なつながりがあったことを知りました。
ちょいとマニアックですが、分類学の歴史を交えて南アフリカの植物を紹介します。
〜 1. 分類学の始まり:リンネと使徒たちの活躍 〜
分類学の歴史を語る上で、18世紀スゥエーデンの学者であるカール・フォン・リンネの名前は外せない。
彼が発明した二名式命名法と呼ばれる学名の形式は現在でも生物を記載する標準的な手法として利用されている。
すなわち、現在では何百万種もが記載されている生物を『分類』する基本ルールをつくったのがリンネということになる。
ただし、ルールができても、使われなければ体系は構築できない。
もちろんリンネ自身もずば抜けた量の研究と執筆を行い、当時知られていた種の体系化を行ったが、彼のフィールドはヨーロッパであり、そこで得られるサンプルは全生物のほんの一握りに過ぎない*2。
多様な生物の分類体系を構築する上では未開拓の地へ調査に行く必要があった。
世界へ飛び出し、膨大な生物を分類するベースとなる仕事をしたのは、リンネの弟子たちだった。
リンネの思想・学説を受けつぎ、世界へ旅立った彼らはリンネの「使徒 (apostle)」と呼ばれている。
現在の日本人の感覚で、自分の弟子を「使徒」とか呼んでたらいろいろとマズいが、当時の科学は宗教と一体になっており、生物の分類体系を知ることは「神の創造物を理解する」こと、神に近づくこと、につながっていたようである。
そう考えると、「使徒」という名称になるのも理解できる。
『リンネとその使徒たちー探検博物学の夜明け』(西村三郎著・人文書院)では20人以上いた使徒のうち3人について詳細に記載されている。
1人目は、当時の「新大陸」だったアメリカを調査したペール・カルム。
2人目は、アラビア半島を調査し、マラリアに倒れたペール・フォルスコール。
そして3人目が、南アフリカ・日本という地理的・環境的に対照的な2国で調査を行ったカール・ペーテル・ツュンベリーである。
〜 2. 南アフリカと日本における分類学:ツュンベリーの旅 〜
ツュンベリーの旅は1771年に始まった。
当時日本はオランダ以外の国との関係を閉ざしており、スゥエーデン人のツュンベリーはオランダ語を覚えてオランダ東インド会社の職員になる必要があった。
そのような背景から、ツュンベリーの旅程は、当時オランダ領だったケープタウンに3年ほど滞在してオランダ語を学びつつ喜望峰の調査をし、その後日本に向かうという気の長いものになったようである。
滞在したケープタウン郊外にある自然景観の参考として、僕が撮影したテーブルマウンテンの写真をいくつか(急に旅行に戻りますが)。
(岩の隙間にいろんな植物が育っている。ハーブ類も自生している)
(ペーパーデイジーと呼ばれる花。花弁がカサカサで、そのままドライフラワーのように使えるとか)
(山頂の景色)
(街を見下ろした景色は、当時もさほど変わらなかったのかもしれない)
約3年間の滞在中、ツュンベリーはケープタウンからかなり内陸部に踏み込んだ調査を三回実施している。
内陸部の気候条件は苛烈で調査は困難を極めたようだが、そのような環境で育つ生物は非常に特徴的で、ツュンベリーは珍しい植物を多数採集できたようである。
僕の旅はケープタウン近郊にとどまったため、そのような野生の姿を見ることはできなかったが、先述のカーステンボッシュ植物園には南アフリカ中の植物が展示されていたため、いくつか紹介する。
第一回目、東南部カフラリア地方への調査で最も大きな成果の一つとされたのが、ゴクラクチョウカ (Strelizia reginae) と呼ばれる植物の採取だった。
極楽鳥が翼をひろげたような華麗な花が特徴で、ツュンベリーの調査後すぐにイギリスに持ち込まれ、当時の観賞植物のニュー・フェイスとして脚光を浴びたようである。
現在の植物園内でも、近縁種と思われる植物を見ることができた。
ゴクラクチョウカの仲間(と思われる)
第三回目の調査において、北西部のナミブ砂漠方面で出会ったとされるメセン類は石ころそっくりだが、開花期には色鮮やかな花を咲かせるらしい。
(メセン類のアルギロデルマ属)
ツュンベリーはこの工程で何十もの新種のメセン類を採集したらしい。
その後もメセン類は多くの新種が発見され、現在では120属2400種もあるとか。
(ツュンベリーと関係あるか知らないけどついでにサボテンの花も)
未開の地でこんなヘンテコな生き物に立て続けに出会った分類学者の興奮、について想像しながら見ると、なかなか感慨深い。
3年間にわたる調査と学習を終え、十分なオランダ語の力も身につけたツュンベリーは長崎へと渡る。
長崎ではあまり自由に動けず難儀したようだが、江戸への参府旅行の道中で多くの植物を採取し、そして江戸に到着してから幕府の医師などとの交流が始まる。
なかでも桂川甫周と中川淳庵の2人はツュンベリーから医学、植物学、物理学、地理学など多くのことを学んだようである。
上記の2人は解体新書の翻訳にも関わった人物で、このあたりは日本史で習う範ちゅうだが、日本に来る前のツュンベリーについて知るとまた違った趣がある。
そして、1年4ヶ月の日本滞在の後、ツュンベリーはバタヴィア、スリランカなどを経て帰国し、師リンネの後を追ってウプサラ大学の博物学教授となる。
帰国してからも精力的に活動し、日本産植物研究の総括として『日本植物誌』を完成させ、『喜望峰植物誌』を完成させる。
喜望峰地域で採取した植物は数が多いだけでなく珍奇種が多かったため、分類には多大な時間を要したようである。
ツュンベリーについては「日本に西洋の知識を伝えた医師」という程度の認識しかなかったが、当時の最先端の科学分野で、未開の地を切り開いた熱い探求者として再認識することができた。
〜 3. おわりに〜
最後に雑感を。まだ読んでる人がいたら嬉しいです。
分類学については暗記のイメージが強く、学生時代はかなり苦手な分野でしたが、歴史と組み合わせて立体的に見ると、とても面白い分野だなと思いました。
当時の科学が信教心をモチベーションとして発展し、それをベースに進化論への転換が起きたという流れもエキサイティングです。
学生時代に最も親しんだ分子生物学は、モデル生物の細部を徹底的に調べて発展した分野だったけど、異国で『多様な生物のおもしろさ」についてシンプルかつ直接的な体験を通して再確認できたのは良かったです。
今後は生物学がどのような進化を遂げるのか、自分はどう関わるのか、といったことも考えつつ、今後もいろいろと体験したいです。
*1:参考文献:"Field guide to wild flowers of South Africa"
http://www.amazon.com/Field-Guide-Flowers-South-Africa/dp/1770077588
*2:生物多様性が極めて高い地域であるMegadiverse countriesのリストに、ヨーロッパ諸国の名前は見あたらない。